今日の会社の朝礼で話したことを書きたいと思います。
私は朝礼の時、誰か1人でも今日のモチベーションを喚起できればと考えて話をしています。
特に元気のない人を鼓舞できたらそれだけで役目を果たせたかと思うぐらいです。
さて、ただ長い退屈な話をするよりも人を高められる話をしていくには、
人に出会って失敗談を聞いたり、自分が新しい経験をしてみて新しいことを知ってみたり失敗してみたりするのがよいと思います。
そうは言っても、自分自身もただの人の子であり、気分の浮き沈みがあります。
気分を変えたいと思う時は「よしもと新喜劇」を見たりして、心の空気の入れ換えをしているわけです。
しかし、先日はよしもと新喜劇ではなく、たまには違うものを見たほうがいいだろう、ということで、
「勇者ヨシヒコ」を見終わった僕はアメリカのコメディードラマでも見てみるかと思いました。
そこで私がチョイスしたのは「グリー」。
コメディー色が強いのかと思いきや、ミュージカルが全面に出ていて歌いまくります。
さらに登場キャラクターが濃すぎて「この人だれだっけ?」ということはありません。
その中で心を打つ言葉がありました。
「バカにする人たちより あなたのほうが すごいのに」
このグリーという演劇部はフットボールなどの花形と呼ばれるスポーツからは地味な部活という位置づけでした。
しかし、本当に自分がやりたいことは何か?
フットボールの練習をサボって歌の練習に行ったことにより体育館裏でイジメを受けるというのは全世界共通でしょうか。
しかし、それでも自分は何がやりたいのか?
歌を歌いたい!!
苦悩の中からの選択です。
人から文句も言われるけど、自分の道を歩む。
なかなかこれができないところです。
家造りでもよく聞く話です。
他人の意見で自分のやりたいことができない。
こちらとしても痛ましい話となることがあります。
その中でどう選択していくかが問われてきます。
リーダーをやれば全ての人を満足させることはできないということが分かってくると思います。
非情となってどこかで割り切らなければならない場面が出てきます。
「バカにする人たちよりあなたのほうがすごいのに」
人の意見を気にしすぎて自分の道を見失ってしまうのはもったいないです。
避難に立ち向かって行く時に私が助けを受けた言葉を書きたいと思います。
「人のそしりを恐れるな。人のののしりを怖がるな」
聖書にあった言葉です。
皆さんはどこかでリーダーとなり決断する者になっています。
仕事、家庭、地域の活動、そして1人であっても自分で決めていかなければなりません。
その時に未来のことを正確に分かる人などいないのです。
ただ自分の選択が総合的に皆が良くなるんだ、と願うこと。
そして選択した道を避難を受けてもしっかり歩んでいかなければなりません。
もちろん何でも自分勝手にやってもいいというわけではありません。
何かを選べば避難は受けます。でも臆することはないです。
「人のそしりを恐れるな。人のののしりを怖がるな」
私はこれで何度も人からバカにされるような局面を乗り越えてきました。
この記事が少しでも皆さんの助けになればと思います。
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工事遅れの記事について
先週こんな新聞記事を見ました。
工事が遅れている会社が続出し、その原因が東日本大震災ということでした。
引渡しのメドが立っていないのは相当な問題だと思います。
業者さんがいくら少ないといってもそこまではいかないと思います。
その原因には非常に疑問に思うところがあり、仙台の会社の役員の方に質問をしました。
以下のことが返ってきました。
- 震災時に来ていた地方業者はもういなくなった。
- 震災時は住宅を建てられるのが1年後、2年後に建てられるという順番待ちの状態であったがそういう状況はもうなくなってきた。
- 下請け業者は仕事がないと言っている。
- ハウスメーカーによっては震災前よりも酷いと言っている会社もある
- 理由として
-
- 移転地の造成の遅れ、造成待ち
- 家賃の安い公共の集合住宅 家賃が固定資産税の10分の1 → 家建てない方がいいという判断
- 10年は仕事があると見越して東北に来た業者が仕事がなくて困っている。地元に帰るにも仕事がなくて、そこでやらざるを得ない会社が少しある。
つまり震災で地方の業者が被災地にいるから仕事が遅延しているというのは考えにくいです。
私が工事が遅れている原因として思うのは
・下請業者の高齢化による廃業
・後継者がいない
・住宅メーカーの勝ち負けの2極化 → 多くの棟数をする住宅会社のところに業者も集まる。
・取り返しのつかない問題が起きた
では中央建設ではどういう状況かというと、
工事が遅れて問題になっている物件は今のところありません。
また、協力業者さんは逆に増えています。
年度末で忙しい時期ではありますがしっかりとやっていきたいと思います。
責任という言葉について
責任という言葉は人によって解釈がかなり異なり、「何となく」な感じで認識している人が多いのではないかと思います。
私は数年前に「責任」という言葉の意味について大いに悩み、いろんな人に意味を聞き、自分にとって責任という言葉がどうプラスに働くかを考えました。
今回責任という言葉について前から書こうと思っていたので私が思っていることを書きたいと思います。
まず最初に一般的な意味なのですが、これがネットで検索してみてもいろんな解釈があり、辞書によっても非常に分かりづらい表現がなされているものがあったので、その中でも理解しやすいものを貼ってみます。
せき‐にん【責任】(goo辞書より)
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての―がある」「―を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の―をとる」「―転嫁」
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。
私が考えている責任の意味とは以下の2つのこととして捉えています。
1 求められている状態にする
2 本来あるべき状態にする、戻す
1 求められている状態にする
人にはいろいろな役割が与えられています。
仕事の中での役割もそうですが、家族の中での役割、兄弟の中での役割、いろいろあると思います。
例えば仕事では会社から求められている数字であったり、目標であったり、テーマなどがあると思います。それを求めらている水準まで持って行くこと、これが「求められている状態にする」ということです。
家族の中で父親としての役割、母親としての役割があると思います。
そこでは子供を養うという求められている状態があるとすると養っていくために必要な物を揃えたり、子供が独り立ちできるように教育をしていったり、問題が起きれば元通りにしていくという行動が親としての責任にあたると思います。
もちろん仕事をして生活費を稼ぎ、それを元に子供を育て、教育していくというのは親としての責任を果たしているとみていいでしょう。
さらにどのようなことを家族の中で求められているのか?
これを考えることもまた重要です。
その結果、「この人は責任感がある」ということになるのです。そしてその責任を継続的に果たしていくことにより「この人に任せておけば自分が求めている状態になる」→「信頼」という言葉に発展していくのです。
お父さんはいつも家事をしない、となれば奥さんから見れば家事に関しては無責任な夫だと見られるわけです(これは僕のことですが!)
銀行のローンもそうですが、銀行はお金を貸したら決めた金額を定期的に払ってもらうように求めています。
それをしっかり継続的に成し遂げていくことにより銀行との信頼関係を醸成していくことができるようになるわけです。
求められていることを果たしていくことにより信頼関係をより高めていくこの関係性、これは責任を考える上で非常に重要なポイントになります。
2 本来あるべき状態にする、戻す
1のところで求められることを果たすと書きました。
しかし、いつも上手くいくわけではありません。
時には失敗したり、時には自分ではどうしようもすることができない不可抗力が起こったり、人生とは様々な予測不能に近いことが起こります。
しかしこの時に責任とは「本来あるべき状態に戻す」が効いてきます。
求められることを達成できない時、責任を取って辞めるという話はよく聞きますが、辞めるだけで本来あるべき状態に戻ったり、求められている状態になるのならそれは責任を果たすということになります。
対して、辞めても何ら改善することがないとなれば責任をとって辞めるということは無責任なこととなります。
状況によっては辞めるのが相応しくない時もあることでしょう。
その時は本来あるべき状態にする、戻すための施策を行っていくことになります。
他の例としては、
何か壊してしまったら、それを元に戻す。本来の機能がある状態に戻す。これが責任につながっていきます。
私の責任
会社内
創業者と後継者では同じ経営者でも力を注ぐ点が異なってきますが、経営に参画しているという点で共通してくるのは
1.会社として人々の役に立つ商品、サービスを提供すること
2.会社に仕事をもたらすこと
3.地域に仕事を提供する対価として会社として金銭をいただくこと
4.中長期的なビジョンを示すこと
5.社員を養うこと
家族ー父親としてー
1.金銭的に家族が困ることがないようにすること
2.いつも笑顔、健康でいること
3.問題が起きれば解決すること
4.結婚時の約束を果たすこと。妻を良きパートナーとし、愛し続けること
そして出てくる「自己責任」という言葉
先日、人質に囚われている日本人が殺害予告を受けるという痛ましい事件が起こりました。
この話を引用するのは非常にデリケートで自分の意見を述べるのは大変躊躇するところですが、ここではあくまで淡々と書いていこうと思います。
本人は自己責任で行くということですが、もし自分がこの事件の当事者であれば「身代金は払うな」、という意味で言うと思います(軽々しくこのように書くことはできませんが)。
その場合はもちろん死を覚悟して行くわけですから相続や自分の葬式の準備もして行くことが前提になることでしょう。
しかし、それが自分だけの範囲で収まればいいのですが、いったん捕まり身代金などを要求されれば日本という国としての責任も発生してきます。日本は憲法によって人質に対してどのようなことをしていく責任があるのかは分かりかねるところがありますが、このようにして自分の範疇以外のところにも影響を与えていくことになります。
【全文】イスラム国拘束・後藤健二氏の母親が会見「息子が解せない」(ログミー)
自分のところにまだ出産したばかりの奥さんを置いて、そして生まれたばかりの乳飲み子を置いて、出かけていったのだと思います。 昨日、その奥さんと名乗る方と初めて電話で交信致しました。
そして私が驚いたのは、赤ちゃんを産んで、まだ2週間も経っていないということなんです。
私は健二に憤りを感じました。何故、そんな乳飲み子を残しながら行くのかということ。
友達が、友人がと言っても、その2週間した経っていない子どもを守ってあげるのは、親しかいないじゃないですか。心優しい子、正義感に燃えている子と申しましても、なんかそこのところがちょっと、解せませんでした。
言葉を抜粋して引用しましたが、ここでこのお母さんは父親としての責任を問いておられます。
つまりこのケースでは「自己責任」とは友人を救いに行くよりも家族を優先することが父親としてなすべきことであると言っています。
この部分に関してまさしくその通りであると思います。
最後に
普通に生きていれば人は責任を与えられていきます。
それは自分が受け入れなくても勝手に周囲からそういう期待を持たされます。
ある意味生きている限り責任からは逃れることはできないでしょう。
しかし、これは成長の機会でもあります。
求められている状態にする、本来あるべき状態にする、戻す。
それを前向きにイメージし、達成しようと突き進む時に自分では想像もしないような奇跡的なできごとが皆を助けてくれることでしょう。
私は責任という言葉に上で書いたような意味で捉えるように気付いてから物事を見る目が変わってきました。
ぜひ、責任に押し潰されることなく立ち向かっていっていただきたいと思います。